宮部みゆき「ぼんぼん彩句」
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宮部みゆきさんから、外出自粛で書店に行くこともままならない読者の皆様のためにサプライズプレゼント! 月刊「俳句」で不定期連載している『ぼんぼん彩句』という短編6作品をWEB上で期間限定公開します。俳句をモチーフに宮部さんが創造した物語たちは、物語が終わった後に、再度モチーフとなった俳句を読むと最初とはガラリと印象が変わるという仕掛け付き。毎日連載でお届けしますので、ぜひ「STAY HOME」週間を楽しんでくださいね。
レイコちゃんと伯父さん伯母さんの家は、もともとはお母さんの実家だ。みんなでいったんそこへ帰って、レイコちゃんが帰ってきたら寝かせてあげられるように支度をして、親戚たちと連絡を取り合いながら、セレモニーホールの担当者と打ち合わせをした。陽が落ちて夜になり、
「ちゃんと食べないといけないよ」
伯父さん伯母さんに励まされて、近所のレストランに食事に出かけた。お母さんにとっても懐かしいお店だそうで、美味しい洋食を食べながら涙を呑み込んだ。
コーヒーが出てきたところで、伯父さんと伯母さんが何となく目配せしあって譲り合って、伯母さんが小声で切り出した。
「こんなときに何だけど……ノリカちゃん、顔をどうしたの?」
お姉ちゃんの頬は腫れていたし、くちびるが切れたところは色が変わっていた。
実はね──と、お母さんが説明した。あんまり詳しいことまで言わなかったけど、ざっくりした話だけでも、伯父さん伯母さんを驚かせるには充分だったみたい。
「ヒロキがいなくてよかったわ」
と、伯父さん伯母さんの一人息子で、あたしたちも大好きな従兄の名前をあげた。
「あの子がいたら、そいつ殴ってやるって怒り狂っちゃうわ」
ヒロキは大きなゼネコンに就職して二年目で、今は東南アジアの支社にいる。直行便もないところなので、帰国は早くても明後日になりそうなんだって。
「怖い思いをしたね、ノリカ」
伯父さんは優しく言った。
「母さんのことは残念だけど、こんな形になったおかげですぐに相手と距離をとれたし、葬儀が終わるまでノリカたちはこっちにいるんだから、冷却期間もおける」
「ええ、あたしもそう思うの」と、お母さんがうなずく。「さっきダンナから電話があって、忌引きのあいだに自分が相手と交渉して別れ話をまとめてしまうから、ノリカはもう何もしなくていいって言ってたわ」
普段はそれぞれマイペースのうちのお父さんとお母さんだけど、娘のピンチとなるとぴったり息が合う。
「それなら安心だ。ノリカもミノリもゆっくり休んでいなさい。三人ともうちで泊まるだろ?」
それなんだけど──と、伯母さんが口を挟んだ。「ノリカちゃん、その彼氏にスマホをいじられたりしていない?」
お姉ちゃんは軽く目を瞠った。「たぶん大丈夫だと思いますけど……」
自信なさそうに語尾を濁した。お財布を取り上げられたりしてるんだから、スマホだって無事ではなかったかもしれない。
「義姉さん、何を心配してるの?」
お母さんの問いかけに、伯母さんは言いにくそうに声を落とした。「スマホにはGPS機能がついてるでしょう? 専用のアプリを入れると、第三者が簡単に位置を特定することができるって聞いたことがあるの」
あたしたちは顔を見合わせた。伯父さんも険しい表情になってうなずく。
「その男は情報工学学科にいるんだよな。その手のことに詳しいだろうし、ロックしてても安心とは言えない」
あいつがお姉ちゃんのスマホに勝手に位置追跡アプリをインストールして、今もじっとそれを見ている──
「山のようなメールや着信が止まったら、それっきりずっと音沙汰がないっていうのも不気味な気がしてねえ」
嫌だ、怖すぎる。
「うちは広いばっかりの古い家だし、セキュリティもつけてないから、ノリカちゃんたちはホテルに泊まったらどうかしら。せめてヒロキやお父さんたちが帰ってきて、男手が増えるまではその方が安心じゃない?」
「そうだな。思い過ごしで笑い話になるならそれでよし、用心するに越したことはない」
伯父さんがすぐホテルを手配してくれて、自家用車でお母さんとあたしたちを送っていってくれた。
もう夜も更けていたので、ロビーには人気がなかった。このホテルのレストランはレイコちゃんのお気に入りで、あたしたちが遊びにいくとよく連れていってくれた。誕生日やクリスマスに楽しい思い出がいっぱいある。
伯父さんとお母さんがチェックインの手続きをしてくれているあいだ、あたしとお姉ちゃんは窓際のソファに腰をおろして、手をつなぎ、黙って夜景を眺めていた。大きな通りに面しているので、この時間でも車の往来が多い。建ち並ぶビルの窓明かりや、行き交うヘッドライトやテールランプの連なりが、だんだん涙でにじんできた。
夜空には満月よりもちょっとだけ痩せた月が輝いている。空の上は風が強いのか、薄べったい黒雲が流れてゆくのが見える。月は次々と流れ来る黒雲の隙間から、あたしたちを見守るように顔をのぞかせている。
そのとき、出し抜けに窓ガラスの向こうに人が現れた。
タツヤ氏だった。昼間と同じ服装で、右手を背中に回して隠し、左手は拳に握っている。顔は幽霊のように真っ白、表情が死んでいる。目は底光りして、瞳が点のように小さくなっていた。
その頬に筋がついている。涙が伝っているのだ。ぞっとして、あたしは震えた。
口を歪めて、タツヤ氏が何か叫んだ。分厚い窓ガラス越しでも、あたしには聞き取れた。もしかしたら思い違いかもしれないけど、ホントに聞こえたんだ。
「やっぱり男とホテルにしけこんでいやがったな」
あたしもお姉ちゃんも凍りついた。息が止まり、血の流れも止まった。
タツヤ氏が右手を動かした。先端にギザギザのついた大きなナイフを握っている。 夜空に雲が流れた。月がその陰に隠れ、清く明るい光が消えた。地上の都会には他の光源がたくさんあるのに、窓際に仁王立ちするタツヤ氏の姿は、月光を失って真っ暗になった。
その瞬間、あたしは悟った。この人はヒトじゃない。
この世のものじゃない。悪魔か悪霊だ。だから、ガラスなんか通り抜けてこっちに襲いかかってくる──
奇声をあげてタツヤ氏が駆け出した。ホテルの出入口から入ってくる。止めようとするドアボーイを突き飛ばし、ナイフを振りかざしてロビーに駆け込んできた。その目はお姉ちゃんを見ている。顔全体を歪ませ、歯を剥き出して身もだえしながら。
ドアボーイとベルボーイ、フロントからもホテルマンが飛び出してきた。あたしはお姉ちゃんと手をつないだままロビーの中央へと逃げた。いっぺんに三、四人の男性たちにタックルされて、タツヤ氏は組み伏せられた。それでも大声でがなりたてる。
「殺してやる! 殺してやる!」
その手からナイフがはね飛び、ロビーの絨毯の上に転がった。きつく抱き合うあたしたちのところへ、お母さんと伯父さんが飛んできた。伯父さんがあたしたちをまるごと抱え込み、
「見るな、見るな!」
大きな背中でブロックしてくれた。
「ノリカ愛してる! こんなに愛してるのに!」
タツヤ氏は吠えるように泣き始めた。伯父さんに抱きしめられ、お母さんとお姉ちゃんのかすれた悲鳴を聞きながら、あたしはまたガラスごしに夜空を仰いだ。雲は流れ去り、月はそこにいて、またあたしたちを照らしていた。月の嘆きを、あたしは知った。
この光では浄化できないものもあるの。ごめんなさいね。
月隠るついさっきまで人だった
(3「月」 了)
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May 13, 2020 at 10:03AM
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