コロナ禍で、なかなか心穏やかにとはいかない日々が続く。自由が制限される中では致し方ことかもしれない。しかし、それにしても、なにか社会がささくれ立ってはいまいか。人間関係がギスギスしているように感じてならない人は多いのではなかろうか。
その中で、現在公開中の映画『追い風』は、こういう時世でも人として忘れたくない「誠実さ」に気づかせてくれる1作といっていいかもしれない。
その誠実さは、実はコロナ禍より前に日本社会及び世界でも顕著になっていた社会の「不寛容さ」をある意味問う。
だからといって、仰々しい作品ではない。実は、そうした広がりを獲得しながら、物語自体はとてもミニマム。個人の周囲5メートルぐらいの身近な世界を描く。
産婦人科から一緒!の仲から映画が生まれるまで
作り上げたのは30歳を前にした若き映画監督、安楽涼。彼の親友で主演を務めたミュージシャン、DEGの実体験、いや実人生に基づく。つまり安楽監督とDEGのここまでの歩みが凝縮されている。ゆえに作品の成り立ちは、まず2人の関係性を振り返らないといけない。
安楽「映画で描かれている通りなんですけど、西葛西に住んでいて、DEGとは同い年で小学校からずっと一緒。1年生のとき、クラスも同じでした」
DEG「もっというと、実は生まれた産婦人科も一緒(笑)。野球部で一緒のときもあったよね」
安楽「ただ、すごく仲良くなったのは中学3年生ぐらい」
DEG「小学校のころは、特別に仲がいいわけではなかった。部活や同じクラスといったことなど全部取っ払って、ほんとうに仲良くなったのは受験が若干落ち着いたぐらいの中学3年の終わりごろ。なんとなく仲のいいやつらだけで集まりはじめるじゃないですか。そのひとりが、あんぼー(※安楽監督の愛称)でした。そのときからの付き合いが現在まで続いている」
気の合う二人は、いつからか表現者としての道を目指し始める。
DEG「あんぼーとはなんか好きなものが似ていて、土手やコンビニの前で、『こんなことやりてえよな』とか、いつも話していたんですよね」
安楽「そうそう。今回の映画にも出てくるローソンに週5回ぐらい集まって、夢を語りあっていた」
安楽「それで、はじめは二人とも役者を目指していたんですよ。でも、ある日、DEGがラップをはじめたいと」
DEG「はい」
安楽「音楽の道へ進むといいはじめて、じゃあということでミュージック・ビデオを作ろうみたいな話になった。ほとんど、遊び感覚ですけど。それで、親の一眼レフカメラを勝手に拝借して、DEGのミュージック・ビデオを撮った。これがひとつきっかけで、僕は役者を続けながら映画を作るようになった。過去の作品にも、DEGには出演してもらっています」
気づくと夢を追っていたのは自分たちだけになっていた
こうして二人の関係は続くが、時を経るに連れ、自分たちのように夢を追う人間は減っていった。
DEG「ラップははじめソロじゃなくてグループだったんですよ。地元のやつと組んで。でも、みんな仕事や結婚でだんだん続けられなくなって辞めていった。
気づくとひとりになっていて(苦笑)。同じように夢を追っていたのはあんぼーともうひとり、映画にも登場しているRYUICHIだけ」
安楽「そうそう。年を重ねるにつれて、周りは結婚したり、就職したりと、それぞれの人生を歩み始めた。
でも、DEGと僕は相変わらず夢を追い続けていた。これは僕が勝手に思っていたことなんですけど、自分が役者であり映画監督の夢を諦めたら、DEGも音楽をやめちゃうかもしれないと思っていたんです。だから、DEGがいるから僕は活動を辞めなかったし、たぶんDEGもそういうところがきっとあるんじゃないかと」
DEG「そうだね」
二人は互いの存在を合わせ鏡のようにしてここまで歩んできたのかもしれない。
安楽「そうかもしれないです。性格はほんとうに違うんですよ。DEGはほんとうに社交的で誰とでも付き合えるようなタイプ。僕は逆で我慢ならないことは相手に言って、衝突してそれっきりの関係になってしまっても仕方ないと思っているところがある。
ただ、DEGのそういう性格を自分はそうはなれないことを含めて尊重している。反対にDEGも僕のそういうすぐ怒りをぶつけちゃう性格を尊重してくれている。性格は違うんですけど、なにか互いがもっている価値観は共有できるんです」
DEG「それがずっと関係が続いている理由かもしれない。友人として知人としての関係性と、表現者としての関係性が同一というか等しくあるような気がする」
安楽「だからDEGはラップで僕らのことも歌うし、僕は僕で映画で自分たちのことを描いている。これが僕らにとっては自然なこと。作品に私情を持ち込むなといわれたら、それまでで『すいません』と謝るしかない(笑)。でも、私情や周囲の仲間たちのことなどにフィクションを+αして映画を作るのがこれまでの自分の映画のスタイル。まずは、自分の見えている世界を描いて、よく知る仲間たちに届けたい。DEGの音楽も同じ感覚があると思う」
DEG「そうだね」
DEGの実人生を描こうと思った理由
そうした関係性の中で、安楽監督は、いままでは自分が主演を兼ねた自分たちの映画を作ってきた。ただ、今回はDEGを主人公にした自分も深く関わる彼の物語を語ることにした。そう至った経緯をこう明かす。
安楽「さっき触れたように、僕はDEGの人間性はすごく尊重していたんです。でも、自分とは違うから、それをきちんと理解できているかというとそれは不確かで。正直なことを言うと、この場面で『なんでDEGは笑ってやり過ごすことができるのか』と思っちゃうことも多々あったんですね。たとえば劇中で描いていますけど結婚式で新曲を歌う場面。この場面も実際にあったことなんですけど、あの状況で、自分だったら笑えるかなと。僕だったらとてもじゃないけどやりきれない。
ここは映画のラストに関わることなので詳しくは触れられませんけど、あの事態に直面したとき、DEGがすごい苦笑いをしていたんですね。いままで見たことがないぐらい頑張って笑っていた。20年以上の付き合いだけど、こんなDEGは見たことない。でも、それでも笑っていた。
それで披露宴で一曲歌うわけですけど、僕は斜めからカメラを通して見ていて、なんかいままで感じたことのないぐらいDEGに哀愁を感じたんですよ。笑っているけど、背中は完全に泣いている。それでいざ歌が始まるとなったら、なんかDEGが披露宴会場のお客さんに一度背を向けてなにかを振り払った。それで歌い始めたら、僕にはDEGが自分のためだけに歌っているような気がしたんですね。いつもはみんなを励ますように歌っているんですけど、このときは自分のために歌っているように思えた。ただ、それはひとりよがりではないんです。たったひとりの人間に全身全霊を傾けて歌っているようで、結果として新郎新婦をはじめ披露宴会場にいるひとりひとりの心に届いているかのようだった。僕の胸にも迫ってきた。それを目の当たりにしたとき、いままでにないぐらい感動したんです。ほんとうにかっこいいなと。実際、会場全体が幸せなムードに包まれていた。
それで、これがDEGの目指していたライブなのかなと思いました。『その場にいるひとりひとりに届ける』といったことは聞いていたんですけど、この日のライブは、DEGが自分の力で己と戦って、それを突き抜けてひとりひとり心に届けることに成功したように感じられた。逆境を糧にしてすごいなと思いました。
それでこのことはたぶん誰も知らないし、DEGがあのとき、どういう気持ちでステージに立っていたのかも、僕しか知らない。このときのDEGの思いを、ほんとうは届けたかった人への思いも含めて、僕が映画で届けたいと思ったんですよね。
それで結婚式が終わってすぐに、『このことを映画にしたい』とDEGに話しました」
それをDEGはこう受けとめたという。
DEG「結婚式のことを映画にしたいという話をされたときは、驚いたというか。あんぼーは前作の『1人のダンス』が池袋のシネマ・ロサで上映されてけっこう話題になって、僕としては『すげぇ、成功している』と思っていたんですよ。
で、次の映画が、特に売れているわけでもない俺が主演とかで大丈夫かと(苦笑)。さあ、これからさらに上にいこうというときなのに、もっとかしこい選択肢はあるんじゃないかと思ったんですよ。
ただ、この結婚式のライブは、みんなには届いたかもしれないけど、俺がほんとうに届けたい人には届くことはなかった。正直なところ、このときのライブはほとんど覚えていないんですよ。届けたい人が来ないとわかって、すごくショックで心は打ちひしがれていましたから。だから、その自分の想いが映画という形になることはうれしいなと思ったし、こういうチャンスはめったにない。なので、やるからには全力で取り組もうと思いました」
自分の人生をある意味、全否定するような脚本で落ち込む
ただ、脚本を読んだときは複雑だったそうだ。
DEG「結婚式の話を中心に、これまでのことが書かれているとは聞いていたんですけど、脚本が完全に完成するまで自分はまったく見せてもらえなかったんですよ。
だから、脚本が届いてはじめてどんな話がわかったんですけど、第一印象は自分のこれまでの人生をある意味、全否定するような脚本で『マジか!』と(笑)。
確かに自分の実体験が書かれていて、そのとき交わした会話がそのまま脚本になっている。ただ、この会話したとき、あんぼーは俺のことを実は心の底では『こう思っていたの!』といった本心が書かれている。みんなが俺のことをどう見ていたのかが赤裸々に書かれている。これは本人としては辛いやら、恥かしいやら、きついやらで。自分がこんなに『かわいそうやつ』みたいに思われているとは想像もしていなかった(笑)。笑ってごまかしていたつもりなのに、『ごまかしきれていねえじゃん、みんなに見抜かれているやんけ』みたいな感じで(笑)。
だから、脚本を読むのは途中からもう苦痛でしかなかった。読み終わったら、めちゃくちゃ疲れました。それで、これは大変な撮影になるなと思いましたね。自分の心がもつかなと。まあ、もちろんあんぼーと共同脚本の片山(享)さんは信頼してたんで、つまんねえ作品にはならねえだろうとは思ったんですけど」
一方、安楽監督はこの機会である意味、この作品はDEGへのラブレター。これまで伝えられなかったことをストレートに書こうと思ったという。
安楽「20年分溜まっていた自分がDEGに感じていたこと、思っていたことをストレートに出そうと思いました。
DEGに断られたらどうしようと、少し危惧しましたけど、これを乗り越えたら、きっと自分もDEGも次のステップにいけると思ったんですよね。お互いそういう時期にもいたと思います。これからもなにか一緒に作っていくつもりだけど、ここでひとつ区切りをつけることで次のビジョンが拓けるんじゃないか。その方がいま以上に、人としても同じ表現者としても、なにか通じあえて、よりいい道を切り開いていけるんじゃないかなと。それには腹を割って話すというか。ここでひとつ、これまでの思いを吐き出しておく必要があると思ったんですよね」
僕は自分の闘いを怒りに、DEGは笑みに変える
ゆえに脚本には自分のDEGに感じていたポジティブな側面もネガティブな側面も偽りなく書き綴ろうと思ったという。
安楽「僕の中では結婚式の出来事が、DEGのそれまでの笑ってきた人生であり、それをみてきた僕の人生をすごく全肯定された瞬間だったんですよ。加えて、このときの体験は、僕は自分の闘いを怒りに変えるけど、DEGは自分の闘いを最後は笑みに変えていたんだなと、感情の最終地点が違うだけで、そこにいき着くまでの葛藤や苦しみは同じなんだと気づいた瞬間でもあった。
また、これまではDEGの笑顔に否定的なところが自分の中にあったんですよ。『お前、笑って済ませていないか』と。でも結婚式のとき、それは違う。『DEGの笑顔ってほんとに偽りがないんだ』と心から感じることができた。これまでの自分が抱いていたDEGの笑顔の否定的なとらえ方は間違っていると。だからこそ、きちんとDEGを認めながらも、どこかで否定もしていた自分をきちんと描かないといけないと思いました。DEGにとっては知らなくていいことを知ってしまうつらい場になるかもしれない。でも、これは自分への戒めを含め避けて通れないと思ったんです」
自身の過去を追体験する苦しさ
こうして生まれた脚本は、DEGのこれまで、そして彼の笑顔の裏にあるであろう実際の胸の内を描く。ミュージシャンである彼だが、アーティストとして一般的なところでいうところの成功とは無縁。28歳になって周りがそれなりの幸せを手にしていく中で、自分はまだ何者でもないところにいる。何も手にできない焦りと悔しさ、自分自身に対して怒りと嘆き。時に彼には周囲から厳しい声が飛ぶ。『いつまで青臭いこといっているんだ』『考えが甘い』と。それでも彼は、いつも誰に対しても笑顔でいる。
DEGはそうした自分を体現し、ひとつひとつの過去を追体験していくことになる。
DEG「撮影は地獄でした。演じたって言っていいか分かんないですけど、ほぼ自分というか、完全に自分なんで。
それで、ほとんど忘れかけていた記憶やその場にいたときのほんとうの感情が甦ってきた。笑ってたけど、心の中は鬱屈としてたなぁとか。実際のとき、たとえば人からみると愛想笑いにみえても、自分としては笑ってごまかしているつもりなんて微塵もなかったんですよ。でも、実際、こうやってあんぼーからいろいろと客観的な事実を並べられて突きつけられると、心の奥底には確かに自分にそういうドロドロした感情が渦巻いていたなとか思い出す。
だから、撮影中は、自分のほんとうの気持ちをずっと追体験していた感じで。これはけっこうきついですよ。自分で自分に向き合うことって、できればしたくないじゃないですか。ほんとう神経が磨り減るようで疲れました。しかも、現場に誰も味方がいなかったんですよ」
これは、安楽監督がDEGから自身を引き出そうとする演出だった。
安楽「外からみえるDEGをとっても仕方がない。みんなが知っているDEGはいい。DEGがほんとうに自分でも気づいていない自分を出してくれるところまでいかないとダメだと思ったんですよね。そうするには、彼自身の脳内がこんがらがるぐらいにならないとと思ったんです。ずっとこれが正解か自問自答し続けてほしかった。
それで、DEGはすぐ調子に乗る性格なので、初日にスタッフに何があっても撮影の7日間は、一切DEGを褒めないでくれと伝えました。『これが正解』と簡単に納得させたくなかった。模索することでなにかつかんでほしかった」
DEG「こっちはそんなこと知らないから、焦りましたよ。初日に何度も同じことをやらされて、OKが出ない。こっちは初日からそこまでつまずくとは思っていないから、『なんか俺がみんなに迷惑かけてる?』と、初日が終わったときは完全に心が折れていた(笑)。
ただ、安楽と片山の現場を知っていて2人が妥協しないことはわかっていたから、なんとか進んでいるんだろうと自分に言い聞かせていた。だから、現場であのときはどういう気持ちで演じていたとかまったく覚えていないんですよ。それよりもつらさの方が勝っていて(笑)」
安楽「本音を言うと、僕も心が痛かったです。きつく当たることでこちらも驚くようなシーンが撮れて、『よかった』と伝えたいんだけど、伝えられない。ここで自分が甘さをみせたら、DEGによくないし、それはイコールで映画がダメになると思ったんです。DEGの映画ですから。
DEGにDEGらしく立っていてもらうには、甘えは禁物。ある意味、ノープランでそのまま立っていてほしかった。こちらがあれよかったとかいうと、どこかで意識して色気づく。余計なことを考えてしまうと思ったんです。
さっき、『その場のことをよく覚えていない』と本人が言ってましたけど、それは僕にとっては正解で、同時にうらやましくもある。
自分も役者をやっているからわかるんですけど、どうしてもこうしたほうがいいかなとか考えているから、事細かに場面を覚えている。それは作品によってはいいんでしょうけど、今回の『追い風』に関しては、まっさらになって立ってほしかった。だから、DEGはよくやってくれたなと思っています」
DEG「つらかったけどいまはやってよかったなと。こういう機会がなければ、自分のここまでをきちんと振り返ることってないと思うんですよね。そこで作品を通してですけど、もちろん自分のダメなところもいっぱいあるけれど、あんぼーをはじめけっこういい奴らに恵まれて、いい人生を遅れてきているかなって。だから、やってよかったなと思いましたね。はい」
多様な人生、多様な価値観があることを肯定したい
こうしてできた映画ははた目からみると、限りなく「わたくし」映画に映るかもしれない。人によってはおそらく、身内だけで作った、きわめて範囲の狭いところだけを対象にそこだけわかってくれればいいといった映画とイメージしてしまうかもしれない。
でも、本作は違う。まず、こういっては失礼かもしれないが、人知れず夢を追い創作活動をしてきたDEGであり、安楽監督が自らを全否定することから始まるドラマは、最後に自分たちのゆるぎない信念をしめしながら、自分たちを、その生き方を肯定する。
それを『甘い』『だからお前たちはダメなんだ』と断じる人間はいるかもしれない。でも、否応なく時代は変化している。どんな人生を送れば、勝ち組で、どんな人生ならば負け組なのか。ほんとうは、そんなことは誰にも決められない。実は、決められるのは本人でしかない。にもかかわらず、世の中はひとつの価値観にある種縛られる。その中で、本作はDEGという生き方を通して、ひとつの価値観にしばられない、他者と比較しなくてもいい、多様な生き方、それぞれの自分らしい生き方があっていいことを示す。
DEG「そう感じてもらえたらうれしいですね。試写でみて、俺は分かるし、すごくグッとくるのもあった。たぶん、俺を知っているやつらも同じように感じてもらえる。けど、まったく俺たちを知らない人が見たらどう思うんだろうなってけっこう不安だったんですよ。でも、試写や上映会で、『すごい気持ちがよく分かる』と言ってくれる人がたくさん声かけてくれて、自分たちの話だけど、その人の人生に触れるところがあるんだなと、実感しました。
自分で歌詞を書いていて、悔しいことがあって相手を見返してえなって考えて、そういう曲を書いたりすることもある。でも、冷静になって、見返したところでいつも『これって何になるんだろうな』って思うんですよ。これを聞いて『誰が幸せになるんだろう』って。そういう感情を歌にしても全然いいと思うんですけど、俺はそれにずっととらわれ続けるのは絶対嫌で。牙は己に向けたい。自分に向けたいなって思うタイプなので。己に勝てるかどうか。だから、誰かに勝ちたいとか、打ち負かしたいとか。そういう気持ちは自分にはないですね」
安楽「なんでこうもなにかと比べなくてはいけないのか、それぞれはそれぞれでしかないというのは常に思っていることで。正解って、ひとつでなくていいと思うんですよ。
確かにいくつか、たとえば『DEGにはなんで上昇志向がないんだ』とか、『もっと上を目指して勝負しないんだ』といった、わりとその人生を否定するような意見をいただいたんですよ。でも、ビッグヒットを飛ばして大金を手にするのが世間的な成功かもしれないけど、本人にとっては違うかもしれない。自分の知っている人間のひとりに最高の曲を届けるのが成功であり、自分の目指すところという人もいるはず。
とくに僕の作っている映画やDEGが作っている音楽、アート全般そうだと思いますけど、勝ち負けをつけるものではない。人生も同じだと思うんですよね。多様な人生を、その人なりの人生を認めたい。そういう気持ちを込めたところはありました」
素直な「ごめんね」という言葉に込めた思い
そして、もうひとつ、本作が指し示すのが「謝ること」の意味だ。それは、先に触れた本作から浮かび上がる人として忘れたくない「誠実さ」につながっている。時節に絡めるわけではないが、気づけば素直に謝らない、自分の非を認めない人間をテレビでみない日はない。その中で、本作で何度も囁かれる少年の澄み切った「ごめんね」という言葉は、心に沁みるものがある。
安楽「この『ごめんね』という言葉自体は、DEGの音楽から生まれているんです。劇中の途中で流れる曲に『Sorry』という楽曲があって。僕はこの曲がすごく好きで、脚本を作る段階で、居酒屋でDEGにいろいろと話をして、そのとき聞いたんです。『Sorry』ってどういう意味を込めたのと。
そうしたら、『俺は俺のペースでこんなんだけど、俺は俺のペースでやっていく、こんな俺でごめんね』という自分に対してのごめんねっていう曲だと。それを聞いたときに、さっき人生は勝ち負けをつけるものではないといっておきながらなんなんですけど、なんかダメな自分への悔しさはないのかなと思ったんですよね。
でも、よくよく考えるとDEGらしいし、それはそれで自分の中の葛藤と静かに戦っているんですよね。諦めではない。年を重ねれば重ねるほどしがらみはでてくるし、素直になれない。だから、普通は謝れなくなる。でも、DEGはこうした現状を受け入れて『ごめんね』と言える。ほんと素直な気持ち。こういう素直な気持ちで自分もいたい。それを『ごめんね』に込めたところはあります」
DEG「そういう素直な気持ちは自分も大切にしたいと思っていること。『Sorry』には、こんな俺でごめんねという、それは弱さかもしれない。でも、自分の弱さを認めることも大切なんじゃないかなと思うんですよね。自分を成長させるためにも」
そうした考え方は、もしかしたら上の世代からしたら「野心がない」「もっと強くなれ」とひと言いいたくなるかもしれない。だが、一方でこの映画が示す、他者への思いやりや大きな成功よりも自己の成長と円熟、小さな幸せを大切する姿勢は、今の時代、きっと共鳴する人は多いに違いない。
安楽「もちろんいろいろな世代の方にみてほしいんですけど、でも、中でも自分たちと同じ世代の人たちに見てほしい気持ちは強いです。あと、同じようにモノづくりを志している人にみてほしい気持ちはありますね」
DEG「そうですね。やっぱ同世代とか見てもらったとき、どう思うのかは気になります」
待望の劇場公開を迎えたいま、どういう心境だろうか?
DEG「いや、まだ恥ずかしいというか、『ウワーッ』という気分です(笑)。撮影中も一切モニターチェックしなかった。どう映ってくるっていうのはどうでもよかったので、『お任せします』という感じで。いまだにフラットな気持ちでみれない。たぶん、一生、冷静に見ることができないと思う。
でも、あんぼーもそうだし、スタッフや他の出演者のみんな、こう言ったら恥ずかしいですけど、俺を愛してくれたなって勝手に思ってて。自分の人生に付き合ってくれたというか。俺の人生と向き合ってくれたことにすごく感謝しています。
あと、まあ『甘い』かもしれないけど、よく頑張ったな俺という気持ちもあります。いまだに自分なんですけど、自分が発している言葉とか聞いて、奮い立たせられることがあるんですよね。だから、これを見ればいつでもあのときの感情が戻ってくる。いつでもこれを見たらあのときの感情が甦ってくる。初心に戻れるというかな。自分が忘れたくない気持ちにこの作品は立ち返ることができる。ほんとうに宝物のような作品になったと思います」
安楽「自分はここからが始まりだなと。エンドロールをあえてなくして、クレジットだけにしたのも、DEGの人生も、自分の人生もここからもう一回始まるという気持ちを込めてのこと。この作品でDEGをもっと多くの人に知ってほしかったし、彼の追い風にしたかった。それで自分も一緒に次へ行きたかった。
個人的なDEGへの思いからスタートした作品ですけど、自分やDEGだけの思いじゃなくて関わってくれたスタッフやキャスト、応援してくれた人など、いろいろな人の思いもいっぱい乗っかってくれた気がするんです。
それぐらい自分が想像をこえたことが役者さんの演技にしても、撮影現場の空気でも起きた。だから実話という現実を描いているんですけど、その現実ときちんと向き合って再現にとどまることなく、そこを超えてひとつクリエイトしたものになった。実話ではあるんですけど、フィクションだからより伝わること、描けることがある。その地点にいけたんじゃないかなと。
そこにいけたのは、おのおのの役者のおかげで、中でもやはり主演のDEGのおかげだと思うんです。だから、僕としてはDEGと一緒に作ることができた作品で。なおかつ、関わってくれた人すべての思いがきちんと乗ってくれた。そのことを実感できた初めての作品かもしれない。
だからこそ、そのみんなの思いを受けて、自分もDEGもここから新たなスタートを切らないといけないなと思います」
DEG「確かに。撮影つらかったですけど(笑)、作品をみたら、なんかもう勝手に自分の人生を応援してもらった気持ちになりましたもん。
さっきあんぼーも話してましたけど、この作品は終わりじゃない。ここからがはじまり。ゴールを作ったというよりは、踏み台を、2人の踏み台を作った気がする。これを超えてさらに高く行くために。
みてくれた人に何人か『この先が気になる』って言われたんですけど、この先は、これからの俺だと思っているので、自分らしく頑張りたいと思っています」
安楽「そうですね。僕も公開が始まったばかりですけど、いま次の映画をどうするかで頭いっぱいです。この『追い風』を経てからが重要だなと。ここから早く新たなスタートを切りたい」
といいつつ、作品の完成直後、DEGは新たなスタートどころか、ストップしてしまったそうだ。
安楽「今度、DEG、『追い風』の劇場公開に合わせてアルバム出すんですけど、ようやく完成したんですよ。劇場の公開に合わせてといったら聞こえがいいですけど、実は『追い風』の撮影が終わったら、こいつ曲作れなくなって(苦笑)」
DEG「燃え尽きた(笑)」
安楽「そういうんですけど、僕はそれが疑問で(苦笑)。1回、めっちゃくちゃ揉めました。追い風にしたはずなのに、作品ができて、試写が終わっても1曲も作らない」
DEG「ほんとうに燃え尽きて出がらし状態になったんですよ。で、あんぼーに曲なんで作らないんだと言われたんですけど、『いいじゃん、ちょっとぐらい許してよ』と(笑)。でも、ダメダメだと思って、いまようやくリバースしました(笑)」
このように二人の思いが詰まったきわめてパーソナルな映画ながら、いまの不寛容な時代になにか大切な心を教えてくれる『追い風』。それはあなたにとっての『追い風』にもなるかもしれない。
「追い風」
アップリンク吉祥寺にて公開中。神戸・元町映画館、名古屋・シネマスコーレ、新潟・シネ・ウインドにて近日公開予定
場面写真はすべて(C)すねかじりSTUDIO
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August 14, 2020 at 07:00AM
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